埋文センター現説資料 No.36より抜粋
徳島県教育委員会
財団法人 徳島県埋蔵文化財センター
2001.12. 1(土)開催
1.所 在 地 徳島市中徳島町1丁目5番地ほか
2.調査期間 平成13年4月6日〜平成14年3月12日(予定)
3.調査面積 3,301u
4.調査地点の概要
本遺跡は、徳島城がおかれた城山の東側、現在は城東高校の敷地内に位置します。天正13年(1585年)豊臣秀吉から阿波国を与えられた蜂須賀家政は徳島の地(初め渭津、後に徳島に改名)に城を築き、城下町の建設を進めます。城下町徳島は城のある渭山を中心として、吉野川支流・新町川などの乱流する中洲に形成された徳島・福島・寺島・常三島・住吉島・出来島の6つの島と新町・富田・助任〜前川・佐古の各地区から構成され、発達していきます。これらは後に御山下と呼ばれるようになります。当該地区は「惣構」と呼ばれる徳島城の外郭「徳島」に位置します。
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| 1.調査地点(国土地理院発行 「数値地図25000(地図画像) 徳島」複製) |
調査地は寛永年間(1624〜1628年)「御山下絵図」(忠英様御代御山下絵図)には「侍屋敷」と記され、元禄4年(1691年)「御山下絵図」(綱矩様御代御山下絵図)には「太田亀之丞」「立木伝左ェ門」、享保年間(1728〜1730年)「御山下絵図」には「賀嶋弥右ェ門」「太田新五兵衛」「立木関之丞」の記載がみられ、500石取り程度の藩士の屋敷が構えられていました。安永2年(1773年)に蜂須賀駿河 喜儀(阿波の十代藩主 蜂須賀重喜公(大谷公)の四男)が屋敷を構え、安政年間(1854〜1859年)「御山下島分絵図 徳島」には「蜂須賀安芸」・「坪内主水」・「仁尾内膳」と記載されており、調査地は幕末(明治2年 藩制改正)まで主に蜂須賀氏(最終は蜂須賀安芸 喜永)の屋敷であったことがわかります。
5.調査の概要
今年度の調査区では、4時期(中世〜幕末)の遺構面(生活面)が確認されています。第4遺構面(自然堆積面)から現在の地表面(グラウンド)まで約2mもの盛土・整地層となっています。この周辺は、江戸時代以前は吉野川の河口域で低湿地のため、水はけの悪い軟弱な地盤であったと考えられます。安定した生活のできる場所にするため、盛土により後世を通して繰り返し土地のかさあげを行い、土地を改良してきた努力がうかがわれます。
第1遺構面(18世紀後半〜幕末)では、礎石建物(屋敷)跡、蔵の基礎と考えられる石列、「蜂須賀」・「坪内」両家の屋敷区画の石組溝(水路)や構造物(塀)の基礎と思われる石列、屋敷の周囲を巡っていたと思われる石組水路、大量の瓦や日常生活で使用された陶磁器類・食物の残りカス(貝殻など)などを廃棄したゴミ穴(廃棄土坑)、井戸、トイレと思われる埋甕・埋桶遺構などを確認しました。出土遺物には蜂須賀の替紋である「稲丸」の家紋入り軒丸瓦や泉州瓦職人の刻印のある平瓦、焼塩壺、日常の生活道具(食膳具類・灯火具・文具類・遊具類)などが出土しています。
第2遺構面以下は、前述したように後世に盛土・整地が繰り返され、残念ながら屋敷地の区割の変遷を明確に捉えられるものは少ないですが、絵図に記された蜂須賀氏以前の武家(立木家)の屋敷地であったことを示す「藤丸」の家紋入り軒丸瓦なども出土しており、今後の発掘資料の検討により明らかになっていくものと思われます。また今回の調査では第4遺構面(16世紀末〜17世紀初頭頃)においても遺構(掘立柱建物跡・鋤跡)・遺物が確認されました。
| 遺構面全景 |
6.主な出土遺構
| 屋敷を巡る青石積みの水路 | 屋敷境とみられる石列と石組みの水路 | |
| 礎石建物跡 | 井戸桶 | トイレと思われる埋められた備前焼の大甕 |
7.主な出土遺物
| 漆椀 | 椀 | 皿 |
| 鉢 | まとまって出土した土師質土器小皿(かわらけ) | 瓦溜り(ゴミ捨て場) |
6.発掘調査の成果
現在までにわかったことをまとめてみます。
1. これまでにも徳島城下町の発掘調査が実施されていますが、大規模かつ面的に侍屋敷地の中心を発掘調査できたのは事例が少なく、城下町の様相を把握する上で重要な資料が得られました。
2. 絵図・文献などによると調査地点は蜂須賀駿河家の屋敷地であったことが記され、安政年間(1854〜1859年)「御山下島分絵図 徳島」には周辺に「蜂須賀隼人」(中老1300石)・「蜂須賀靭負」(中老 700石)などの一族の名もみられます。蜂須賀駿河家は代々徳島藩の家老職(重臣 藩主の補佐役)を務めた家系です。石高は4000石で屋敷地は、一町一反二歩(3,302坪)の広さであったといわれ、発掘調査の結果においても、礎石の配置などから入母屋の御殿造りの大規模な屋敷であったと想定されます。蜂須賀氏関連の屋敷の間取り等は、いまのところ絵図面などは見つかっておらず、現段階では現存する他家の間取り図や屋敷地内の位置関係などから、「中奥」あるいは「奥」と呼ばれる屋敷のなかでも私的な空間にあたる部分の可能性が高いと考えられます。
3. 第1遺構面においては巨大な青石を用いた礎石の配置(礎石建物跡)や青石を組んだ水路・蔵の基礎と思われる石列や屋敷境の石列が確認された。石組は割石を用いた「布積み崩し」(穴太積み)という横目地が一部通る高度な石積み技術で構築されています。出土した屋敷境は2条の石組溝(排水路)の間に礫を詰め込み地固めをした上に、石組の石列があり、重量のある構造物の基礎と考えられ、築地塀のような頑丈な構造物が存在していたものと思われます。これまでの徳島城下町の発掘調査でも屋敷境付近では2条の素掘り溝が確認されており、土地の所有を明示する「屋敷界溝」として認識されています。今回確認された「蜂須賀」・「坪内」両家の屋敷境は石組(構造物)が施されており、土地の所有がより明確化されているものと思われ、それぞれの屋敷地の立地や性格に応じて各種の区画(溝・塀など)が構築されたものと考えられます。
4. 出土遺物では各地の陶磁器類(瀬戸・美濃・唐津・伊万里・備前・京焼・大谷焼など)をはじめとして多種多様な日常の生活道具(漆椀・焙烙・コンロ・焼塩壺・火鉢・灯明皿・硯・かんざし・キセル・徳利・碁石・植木鉢・土人形・火打石・銭貨など)が出土しています。量的には肥前系(唐津・伊万里など)の椀・皿・鉢などの食膳具が多くみられます。土人形には太夫(節句)・天神(学業)・西行(泥棒除け)・狐(稲荷信仰)・犬(子供の守り神)・猿(庚申信仰)などがみられ、人形の大半は家内安全などの民間信仰と結びついていたと考えられています。当時の食生活を示すものとしては、ゴミ穴からアワビ・サザエ・ハマグリ・カキなどの貝殻が出土しています。また焼塩壺は焼塩の製造と流通を兼ねた容器で武家の食膳や宴席などで用いられたものと思われます。
出土した瓦には産地を示す泉州谷川産の刻印のあるものが見られ、当該屋敷でも徳島城で使われていたものと同じ瓦が使われていたことがわかります。また蜂須賀氏の家紋入り瓦は「稲丸」と呼ばれる徳島藩主の蜂須賀氏の替紋です。蜂須賀氏の家紋については「卍」がよく知られていますが、他に「稲丸」・「桐」・「抱柏」があります。替紋は藩主の使用の他にも分家や重臣などに与えられたりしたもので、家紋の使用については「藩法集243」に規定が記されており、これを裏付ける資料として注目されます。また家紋の使い分けについては文献資料などでも知り得ぬ不明な部分が多くあります。今回の調査では「卍」の家紋は1点も出土しておらず、そのことからも「卍」は藩主(本家)のみの使用であったと想定できます。
5. 第4遺構面(16世紀末〜17世紀初頭頃)においても遺構(鋤跡や掘立柱建物跡など)・遺物が確認されています。現在、調査進行中のため詳細を述べることはできませんが、調査地点は城下町遺跡の中でも比較的高所に位置しており、吉野川下流域の沖積低湿地でありながら、当時から安定した土地であったことが伺われます。
6. 出土した掘立柱建物跡は、現時点で桁行2間×梁行3間程度の規模をもつものがみられます。柱穴には柱痕が残り、10〜12cmの角材が使われていたと思われます。また基底には片岩割石の根石もみられます。出土遺物には17世紀初頭頃の瀬戸の天目茶碗や志野の方形皿などがあります。旧動物園跡の発掘調査成果ともあわせて渭山城関連の遺構の可能性が考えられます。今回の発掘調査で蜂須賀氏の阿波入府以前、城下町が形成される以前の段階または城下町形成初期段階において人々の生活の痕跡が確認されたのは徳島動物園跡の調査に次いで2例目で、城下町形成以前または形成初期の様相を知る上で注目されます。
7. また現在の徳島市中心部一帯は、中世荘園の大和国春日社領富田荘の南助任保であったと考えられ、調査地点はその中の猪山・寺島地区の一部にあたります。今回検出された掘立柱建物跡より時期的に先行する水田耕作の痕跡と思われる鋤跡はその名残と考えられます。
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