タイトル弥生

ライン

弥生土器壺甕
弥生土器鉢高杯
25縄文から弥生へ
26さまざまな弥生土器

 縄文から弥生へ、人々の生活がどういうふうに変わったのか想像してみましょう。狩りや漁が中心だった生活から、米づくりが中心の生活への変化が土器にも現れます。弥生時代のはじめの頃はつぼとかめが中心で、砂粒が多く混じったやや厚手のつくりのものが多くなります。
 だんだんと、土器は薄くつくられるようになり、ほとんど文様のない小型のものが多くなります。様々な形の土器が、より具体的に使い分けられていたようです。
弥生の水田 27弥生の水田
 私たちが米を食べる習慣は弥生時代に始まります。
 写真は弥生時代の水田跡です。水田の広さは約10〜30uで現在に比べて小さいのは、水の深さの調整のためです。水田ごとに高低差がつけられ、それを利用して、水を取り入れたり排水したりしていたのでしょう。画面に小さく白く光って見えるのは、足跡や稲株跡だと考えられます。
復元された鋤と鍬 28米づくりに使われた道具(復元)
 スコップのような形をした鋤は、水田に水を引く溝を掘ったり、畦をつくるのに使われたのでしょう。もう一つは、今でも農家の人たちが使う土を耕す鍬です。大陸から伝わってきた稲作の文化は日本の生活に深くとけ込んでいったことがうかがえます。
石庖丁
弥生土器甕
29稲穂刈り(石庖丁) 
30煮炊き用のかめ

 石ぼうちょうは、収穫の際に稲の穂を刈るための道具です。こうやって収穫されたコメは、かめで炊かれ、食されたことでしょう。かめにはススが付いて、よく煮炊きに使われていたようです。
復元竪穴住居跡
復元高床倉庫
31弥生人のすまい(復元)
32高床倉庫(復元)

 弥生時代は、田んぼの世話をする必要から、そのすぐそばにムラをつくってずっとそこで暮らすようになりました。地面を掘りくぼめた上に、丸木を組んで屋根をふいた竪穴住居です。
 この家でどんな生活をしていたのか想像してみましょう。
 収穫されたお米は、湿気やネズミから守るために高床倉庫にしまわれました。
 2枚の写真は、弥生時代の建物が復元された阿波史跡公園で撮影したもので、周辺には矢野遺跡をはじめとして、多くの遺跡があります。
矢野銅鐸埋納 33銅鐸のまつり
 青銅でつくられた弥生時代のまつりの道具です。古いものは音が鳴るしくみになっていますが、この銅鐸(どうたく)は、高さ約98cmの大きなもので、鳴らすしくみのない新しいものです。矢野遺跡で発見された銅鐸は、地面に穴を掘り、ていねいに埋められ、その上には小さな小屋が建てられていたことがわかっています。
 埋蔵文化財センターの弥生の音色広場で、銅鐸の音色に耳をすましてみませんか?
石鏃と鉄鏃 34石から鉄へ
 弥生時代ってどんな風景が思いうかびますか?稲穂が風になびく静かなムラの様子でしょうか。
 弥生時代は水や土地をめぐってムラどうしの戦いが起こるようになりました。何種類もの武器がつくられ、丘の上には戦いに備えたムラがつくられることもありました。やがて、人々の間に支配する人と支配される人の区別が生じ、クニができていきます。
壺棺墓 35棺に使用された土器
 土器は煮炊きや貯蔵用に用いられるだけでなく、時にはこんな使われ方もありました。下の方に小さな穴がひとつあいているこの土器は、棺として使われました。
 人が亡くなると地面に穴を掘って、土器の中に遺体をいれて別の土器でふたをして埋められました。土器の大きさから遺体は子供ではないかと考えられます。
水銀朱の精製復元 36朱の工房跡
 弥生時代から古墳時代にかけて、亡くなった人の体や棺を赤く塗る習慣があったようです。
 赤い色は、縄文時代から特別な意味を持って使われていたようです。写真は赤い色の粉をつくっているところを再現しています(黒谷川郡頭遺跡をもとに復元)。 赤い色の原料は、阿南市の若杉山(わかすぎやま)遺跡で手に入れていたことがわかっています。

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