タイトル古墳

古墳の出現 37古墳の出現
 3世紀の終わり頃になると、大規模なお墓(古墳)が造られるようになります。写真は前方後円墳の宮谷(みやだに)古墳で、全長約37mあります。前方部から一段高く造られた後円部を見たところです。
古墳の内部
青銅製の鏡
38古墳の内部
39青銅製の鏡

 宮谷古墳内部の遺体が納められていたところです(全長約6m)。石を積んだ中に、木の棺が置かれていたようです。この古墳から青銅製の鏡や鉄製の斧や矢じり、玉などが見つかっています。宮谷古墳周辺は、阿波史跡公園の中で整備されています。
北原古墳 40北原古墳
 6〜7世紀の古墳は、規模が小さく円墳が多くなります。死者を葬るために横穴式石室とよばれる、石を積み上げてつくった部屋を使うようになります。この石の部屋には、一族の死者が後から送り込まれることもありました。北原(きたはら)古墳の南側に、石でつくられた入り口が見えます。ここから、遺体を中へ運び込みました。
段の塚穴
古墳の入口
41段の塚穴(太鼓塚古墳)
42古墳の入り口(太鼓塚古墳)

吉野川の雄大な流れを見渡す高台に造られた円墳です。古墳の内部は、薄く割った青石を使う特色のある石積みで築かれた、県内最大の横穴式石室がみられます。当時の美馬町一帯を勢力下におさめていた一族のお墓かもしれません。
埴輪 43はにわ
 はにわは古墳の周りに立て並べるためにつくられたものです。はにわにはたくさんの種類がありますが、人を現したはにわは徳島では少ししか見つかっていません。
 このはにわは髪型や衣服から女の人だと考えられ、手にはつぼをささげています。丸い筒の形をしたはにわもいっしょに見つかっています。
新しい焼き物 須恵器 44新しいやきもの
 5世紀になるとロクロを使って形を作り、窯でかたく焼かれた須恵器(すえき)と呼ばれるやきものの技術が朝鮮半島から伝えられました。
 その結果、これまでにない新しい形の土器がつくられるようになりました。豪族たちは、このやきものを古墳に納めさせました。その後、須恵器は、広く毎日の生活の中で使われるようになります。
かまどのある住居跡 45カマドのある住居跡
46カマドのまわり

 およそ300年にわたって続いた古墳時代は、米づくりが本格的に行われるようになり、大きな古墳を造るだけの生活の基盤が整っていたと考えられます。大柿(おおがき)遺跡では、6世紀の終わりごろ(今からおよそ1400年前)の住居跡がまとまって見つかりました。
 古墳時代になると、炉は家のまん中から壁ぎわに移り、カマドがつくられます。カマドの周辺に土器がまとまって見つかっていることから、今の台所のように使われていたようです。煙も外に出るようになり、以前に比べて快適で、室内も広く使えるようになったことでしょう。
古墳時代の土器 47古墳時代の土器
 縄文・弥生土器のながれを受けついだ、素焼きの赤っぽい土器と石のように硬い須恵器が使われていました。
 素焼きの土器はおもに煮炊き用に、須恵器は貯蔵用をはじめとして、いろいろな用途に使われました。
火事で焼けた家 48火事で焼けた家
 火事は、さまざまな理由で、突然起きることが多いため、生活していたそのままの状態が残されている場合もあります。使っていた土器、炭になった柱や屋根など、千数百年前の火事が起こったその日の暮らしがよみがえります。


トップへ次へ戻る